2009年06月25日

ポーランドとフィンランド侵攻

ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、ソ連を連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったソ連は、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となった。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日、南部のロストフも占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ナチス・ドイツは開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。

12月7日(現地時間)、日本海軍機がハワイを攻撃し太平洋戦争が勃発。それを受けて12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告。アメリカ合衆国が連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。

東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からボルガ川西岸のスターリングラード[9]、コーカサス(カフカス)地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフを占領。8月9日、マイコプ油田を占領した。
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ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。

8月23日からスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35?まで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。

2009年06月10日

ニイタカヤマノボレ

1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島の単冠湾に集結、11月26日ハワイへ向けて出港した。12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。
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12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であった[4]。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。

なおこのとき陸軍はイギリス領のマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった

2009年06月06日

ハガキ職人(はがきしょくにん)とは

ハガキ職人(はがきしょくにん)とは、特定のラジオ番組や雑誌に優秀なネタハガキやイラスト入りのハガキを数多く投稿し、その他の番組リスナーや雑誌読者からもその名が広く知られている常連投稿者の事を指す用語である。

ただし、「番組で掛けてほしい曲のリクエスト文」や「番組パーソナリティへのお便り・相談事」が主体となるラジオ番組では、精力的にハガキを送っているヘビーリスナーであってもハガキ職人と呼ばれることはない。ハガキ職人の活躍する場が全く無い音楽番組がその代表例である。このような番組では、大抵は「○○○リスナー」という包摂的な代替語で以て呼ばれる。
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ハガキ職人の多くはアマチュアの一般人である。ハガキ職人はマスメディアの発信側に「優秀な才能」として認識される可能性が高く、ラジオ番組のハガキ職人から放送作家に、雑誌のハガキ職人から漫画家やアニメーターになる例も多い。近年では、お笑い芸人になる為の一つの登龍門としても認識されているようである。

起源は1970年代のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』(ニッポン放送)にあると見る者もいる。ハガキ職人という言葉そのものは1980年代の『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で、常連投稿者だった道上ゆきえ(ペンネーム)が自称した事から使われ始め、『とんねるずの二酸化マンガンクラブ』(文化放送)や『とんねるずのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で定着したという説が有力である。このためか、ハガキ職人という言葉はニッポン放送の番組に投稿する者達の間で使われることが多いと見る者もいる。ただし、他のラジオ局で放送される番組でもハガキ職人という言葉は使われており、もはや一般名詞となっていると見る者もいる。 しかし近年は、ハガキよりもメール投稿のほうが主になっているラジオ番組も増えてきていて、ハガキ職人ではなくネタ職人という呼び名も増えてきている。

なお、ひらがなの「はがき職人」はコナミの商標である。

2009年04月23日

嘉吉の徳政一揆

嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)は、嘉吉元年(1441年)に徳政令を求めて京都及び近江国など周辺地域で発生した土一揆のこと。嘉吉の土一揆(かきつのつちいっき)とも。

六月の嘉吉の乱で将軍足利義教が殺されると政治的混乱の中「代初めの徳政」を求めて(天下一同の徳政令)京都近江坂本の馬借を中心に農民が蜂起、地侍が指導し、数万人の一揆にふくれあがった。各地への波及はなく、京都を包囲する形をとった。

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一揆の流れ
六月 義教暗殺
八月 近江の馬借蜂起、守護六角氏が徳政令発布。
九月 東寺、北野社の占拠及び丹波口、西八条の封鎖。延暦寺が徳政令に反対した事から同支配下の近江の馬借が一揆から離反・敵対するも、一揆は更に清水寺占拠。
一揆軍は京都と外部の連絡を断った上で、酒屋、土倉、寺院を襲撃した。一揆勢は地侍の指導の下、組織的な行動をとり、勝手な略奪を取り締まった。

また幕府が当初、農民に限定した徳政令を発布して事態の収拾に乗り出したのに対し、公家や武家も含む一国平均の徳政令を要求し、支配者層の支持をも得ようとしている。さらに、管領細川持之が土倉から賄賂一千貫を貰って保護の為に、出兵命令を出したという事実を知った守護大名は出兵を拒否。事態はさらに混乱した。新将軍足利義勝は要求を受け入れ、差し押さえられてから20年未満の質物の返還など、山城一国平均での徳政令を発布(嘉吉の徳政令)。正長の土一揆では遂に公式な徳政令を出さなかった室町幕府が徳政令を出したことにより、その権威は大きく傷ついた。

2009年04月19日

世界の一体化

世界の一体化(せかいのいったいか)とは、世界の歴史において、交通や通信の発達などによって、諸地域間の分業システム(近代世界システム)が形成され、固定化され、また幾度か再編されたその全過程をあらわす。歴史事象としては、16世紀の大航海時代以降本格化し、現在もなお進行中である。

主として歴史学上および歴史教育における概念であり、とりわけ日本における世界史教育では平成11年以降学習指導要領のなかで基軸となる観点のひとつとして盛り込まれた。

1953年、鈴木成高は「世界の一體化」のなかでアーノルド・トインビーが文明史の立場から「ダ=ガマ以後」をそれ以前と峻別し、近世に着目して世界の一体化の進展を論じていることを受けて、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を例示しながらコミュニケーション革命(運輸革命)の進展についてその重大性について説きおこし、二度の世界大戦を経て「世界の完全なる同時化」が実現したと指摘している。

それ以後も、九里幾久雄「世界の一体化を中心とした世界史の構成」(1970年)[2]、中山治一「世界の一体化」(1975年)[3]など、この用語は広く使用された。

「世界の一体化」は、意味合いとしては「グローバル化」「グローバリゼーション」とほぼ同義である[4][5]。学際的にグローバリゼーションの概念に取り組んだ伊豫谷登士翁編『グローバリゼーション』では、先駆者的な存在としてウォーラーステインの世界システム論を掲げている[6]。ウォーラーステイン自身は、『入門・世界システム分析』の用語解説において、グローバリゼーションという言葉は1980年代の発明だとしている。

なお、川北稔は、世界システム論とパトリック・カール・オブライエンらのグローバル・ヒストリーとの違いに論究するなかで、ウォーラーステインの所論は伝統的なアジア史研究者などから「ヨーロッパ中心史観」だとするような批判があるが、それは誤解であるとして、世界システム論における「世界」とはいわば広汎な分業体制のことだとしている。それによれば、「世界」がグローバル、すなわち地球的になったのは近年の現象にあるにすぎず、それこそ近代世界システムの成長の到達点としての現象なのであり、かつては地中海世界、東アジア世界など、いくつもの世界があったのだとしている[8]。

「世界の一体化」における分業関係には、ウォーラーステインが指摘し、平成11年改訂の高等学校地理歴史科「世界史A」学習指導要領が言及するように、経済的不平等・経済格差をともなっている[9]。また、ここでいう「一体化」とは、経済的不平等を生み出しながらも互いに結びつきが深くなることを意味し、切り離すことがいよいよ難しくなる傾向や様態をあらわしており、「同一化」や「平準化」は含意していない。

アメリカ合衆国の歴史社会学者イマニュエル・ウォーラーステインはアフリカ研究から出発して1970年代に「従属理論」の影響のもとマルクス主義に近づく一方、歴史に長期的および短期的変動の組み合わせをみるフランスのアナール学派第二世代の中心的な歴史家フェルナン・ブローデルの社会史、「全体史」そのほか、カール・ポランニーの経済人類学の方法なども取り入れて、独自の世界システム論をうちたてた。

彼は、それまでの歴史学は世界史を国家や民族の「リレー競争」のようなものとして描いていると批判した。つまりそれは、どの国や民族も同じ段階をたどることを暗黙の前提としており、それゆえ、それぞれの国や民族にとって、いまどの段階にあるかを知ることが肝要となる。しかし、ウォーラーステインは、実際には世界、とくに16世紀以降の近代世界は一国史の寄せ集めではなく、一つの大きなシステム(「世界経済」)であり、個々の国や民族はこのシステムを構成する要素であって、それぞれの国の歴史は世界史の部分にほかならないとした。こうした立場に立つと、重要なことはむしろ、このシステムの内部においてどのような役割を果たしているかということになる[10]。

こうした考えは従来の歴史像を一新するほどの影響力をもったが、それにもまして、それに先立って1966年に発表されたアンドレ・グンダー・フランクの論文「ラテンアメリカにおける低開発の開発」は、それまでの先進国と後進国の対比によって語られる「低開発イコール発展段階の遅れ」とする見方を否定し、サテライト(衛星)諸国の低開発はメトロポリス(中心)諸国の開発によって作り出されたものであると主張して衝撃をあたえた。つまり、フランクによればイギリスにおける開発とインドにおける低開発はいわばコインのオモテウラのようなものであり、一つの歴史的なプロセスにおける 2側面である。世界資本主義とは、このような裏表をなす2つの部分より成り立つ構造なのであり、開発と低開発の問題を考慮するには、この構造そのものを検討しなければならないとした。

エジプト出身の経済学者サミール・アミンは、このフランクの考え(従属理論)を踏襲し、経済学的に展開することを試みた。彼は世界資本主義を「中心部」と「周辺部」とに二分して、両者の関係をフランクが単に経済余剰の獲得と充用の対立として説明したのに対し、彼はこれを分業構造であると把握し、

輸出品生産部門
大衆消費財生産部門
奢侈消費財生産部門
生産財生産部門
の4つに分け、このうち「周辺部」資本主義が1.と3.を、「中心部」資本主義が2.と4.を引き受けることによって、後者が前者を支配するとした。そして、世界資本主義の2つの部分をマルクス主義でいう「社会経済構成」であるとし、それぞれが資本主義的生産様式の組み合わせではあるが、「中心部」が資本主義に純化する傾向をもつ一方、「周辺部」ではいくつもの生産様式が残り、いつまでも併存するものとしてとらえた。

ウォーラーステインは、フランクやアミンら「従属理論」の影響を強く受けながらも、それが「中心」と「周辺」の関係が固定的にとらえがちな傾向にあったことを考慮して、下表[11]に示すように、両者の垂直的分業関係のあいだに中間(混合経済)領域として「半周辺」(「半周縁」)を設け、世界システム構造の複雑を指摘すると同時に、内部における上昇や衰退の可能性(流動性)をより的確に把握できるようにした。

ウォーラーステインによれば、近代世界システム[12]は「中核」、「半周縁」、「周縁」の3部分から構成され、それ自体の内的運動によって不断に膨張しつつ変化する「史的システム」であり、そのシステムは資本主義的な「世界経済」の形態をとっており、この「世界経済」は「長期の16世紀」にその起源を持っていること、そして、そこには、特有の生産物再分配様式、つまり貢納による再分配の様式(これを、ブローデルは「経済上のアンシャン・レジーム」と呼ぶ)から、全く異質な社会システムへの「移行」があった、としている[13]。また、資本主義的な「世界経済」は、単一の分業によって結ばれておりながら、政治的には多中心であり、文化的にも多様である。その点が、16世紀以前の「世界帝国」とは異なるとした。

バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

そして、史的システムとしての「世界経済」の変動には「循環運動」と「長期変動」があり、前者は資本主義生産の無政府性と有効需要の限界から生まれ、ほぼ4、50年の周期で繰り返される拡張と好況、停滞と不況の2局面の交替に代表されるのに対し、後者は利潤増大のための生産諸要素(財貨・土地・労働力)の不断の商品化、生産における機械化、世界経済の地域的広がり、さらには社会運動、労働運動ないし民族運動のかたちをとった反体制運動としてあらわれる。この二者の相互作用のうえに「世界経済」は生命のサイクルにも相似する発生・成長・衰退・死滅の経過をたどるであろうとした。

また、ウォーラーステインは「世界経済」における「循環運動」に呼応して、その上部構造である「国際システム」に「勢力均衡」と「覇権(ヘゲモニー)国家」の出現の周期的交替が起こるとした。「勢力均衡」を支えるのは列強、すなわち「中核」「半周縁」の諸国民国家であり、これは本質的にはそれぞれの国の支配階級が「世界経済」のなかで自己の利益を追求し、実現していくための手段であるが、それはあくまで国際システムの構成要素にすぎず、必ずしも自律的な存在ではない。諸国家間の「勢力均衡」は「中核」のどれか一国が「世界経済」を一元的に支配する「世界帝国」となることを妨げる。

世界システム内において、ある「中核」の国家が他の「中核」に属する諸国家を圧倒している場合、その国家を「覇権国家」と呼ぶ。ウォーラーステインによれば、表に示したように、覇権はオランダ、イギリス、アメリカ合衆国の順で推移したとされる。ウォーラーステインは、オランダの「覇権」を1625年から1775年にかけてとしており、「オランダ以外のいかなる国も、これほど集中した、凝集性のある、統合された農=工業生産複合体をつくりあげることができなかった」と評している[13]。しかし、ウォーラーステインに師事した山下範久は、「覇権」と呼びうるか疑問を呈している[14]。これらに共通するのは、その国が「覇権」のピーク時に生産、流通(貿易)、金融の各分野であいついで優位に立ち、軍事・政治そして文化の各領域でその支配と価値を他国に強要できることである。しかしその「覇権」は全能でも永遠でもなく、やがて上述した各分野・領域における優位が次々に失われ、再び列強が対峙する「勢力均衡」へと道をゆずる。

なお、ウォーラーステインは、世界が資本主義の「世界」と社会主義の「世界」に分断されていると理解されてきた冷戦期にあっても「世界経済の一体性」を強調した。彼は、ソヴィエト連邦が近代世界システムのなかでアメリカ合衆国と政治的には敵対することで、むしろ機能的には世界経済を安定化させていると論じている。

このように整理されたウォーラーステインの考え方は彼の学問上の師であるブローデルに逆影響して、その『物質文明・経済・資本主義』において、「世界=経済」というかたちでより広い視野のもと多角的な視覚から考察されている。さらに国際政治学にも影響をあたえ、ジョージ・モデルスキーの覇権循環論(長波理論)に共感をもってむかえられるなど多方面にわたる影響をおよぼしている。彼は、

フリードリッヒ・リストによる、未開状態→牧畜状態→農業状態→農工状態→農工商状態
カール・ビュッヒャーによる、家内経済→都市経済→国民経済
マルクス主義(弁証法的唯物史観)による、原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会
ウォルト・ロストウによる、伝統的社会→離陸の準備段階→離陸(テイク・オフ=産業革命)→成熟への前進段階→大量消費社会
など、一連の経済発展段階説を乗り越え、世界を一体として把握する、巨視的で新しい歴史学の道を開拓した。

2009年04月04日

東京開催と関西開催を交互

昭和時代 [編集]
1927年(昭和2年)の東西合併から春秋園事件が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。能代潟の項を参照。
東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「イロハ順」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。この番付で大坂相撲の錦城山、荒熊の両大関は平幕に編入された。
1931年(昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明したが、翌3月場所には名を残し、5月場所の番付は1890年5月場所以来41年ぶりに横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
1931年1月場所の番付は、西方幕内に出羽ノ海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽ノ海所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は立浪部屋の3人が最多だった。
1932年1月場所の番付編成(春秋園事件による改正前)において、前年5月場所で優勝した小結武藏山は関脇を飛び越し新大関に昇進した。小結から新大関に昇進した例は、1938年(昭和13年)5月場所の前田山がいるが、前田山の場合は前(1月)場所に横綱玉錦を破り11勝2敗の好成績をあげ、この場所大関が鏡岩1人ということも考慮され大関昇進を決定づけた。
1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
1933年2月、天龍一派の新興力士団が「大日本関西角力協会」を結成。大阪で第一回本場所開催のおり発行された番付(東西制はなく片番付様式)には大関天龍、関脇大ノ里、小結錦洋以下力士41人。行司(番付には行司ではなく「審判員」と書かれている)7人(この中にのちの24代木村庄之助(当時は初代式守伊三郎)がいる)。他に「事務員」「拡声係」「桟敷係」「世話人」が書かれている。
1934年(昭和9年)5月場所の番付より、幕下以下の力士全員の出身地名が記載された。
1936年(昭和11年)5月場所、双葉山は新関脇の場所で11戦全勝で優勝し、新大関昇進を決めた。新関脇の番付を1場所で新大関に昇進した例は、1918年5月場所の九州山(東西制による)、1939年(昭和14年)5月場所の羽黒山(11勝4敗)、1940年(昭和15年)5月場所の五ツ嶌(13勝2敗)がいる。このうち五ツ嶌の13勝は新関脇として最多の勝ち星(15日制以降)で、のち吉葉山(1950年(昭和25年)5月場所)、琴欧州(2005年(平成17年)9月場所)がこの記録に並んでいる。
相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年(昭和12年)暮れに関西角力協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
1939年1月場所、日中戦争(支那事変)の激化で応召・入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭4枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。期待に応えた双葉山は、興行日数が15日制となったこの場所、完全復活し見事15戦全勝(15日制で史上初)で6回目の優勝を果たした。
1940年5月場所、東前頭12枚目の青葉山は7勝8敗と負け越しながら翌場所は西前頭4枚目と、落ちるどころか逆に8枚も昇進したという極端なケースがある。こういうのを俗に言う「番付運」で、当時は東西制でそうするより仕方が無かったと思われる。
1941年(昭和16年)1月場所で安藝ノ海、五ツ嶌の同時大関昇進で、前田山を含めて番付の東方に3大関が並んだ(西方は羽黒山1人)。これは1919年(大正8年)1月場所(西方に2代朝潮、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱。東方は九州山1人)以来22年ぶりの変則番付となった。
1942年(昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
1944年(昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所(1945年(昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
戦後初の1945年11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。
1946年(昭和21年)11月場所は丸1年ぶりに行われた本場所だったが、横綱双葉山をはじめ、笠置山、玉ノ海、出羽湊などが前年11月場所限りで大量に引退したため、幕内と十両で13名の力士が番付から消えた。
1947年(昭和22年)6月場所の番付で、十両を1場所で新入幕を果たした岩平は本名のまま土俵に上がったが、本名のままの幕内力士第1号だった。翌11月場所「若葉山」と改名した。また、この場所の番付で史上初めて5大関(佐賀ノ花、前田山、名寄岩、東富士、汐ノ海)となった。
1948年5月場所で、横綱・大関・関脇各3人の番付ながら張出を設けず、すべて枠内に四股名が記載された番付となった。翌10月場所も横綱・大関各3人がすべて枠内に書かれた。このときはこの2場所のみだったが、1994年(平成6年)7月場所に張出制度が休止されて以降、張出のない番付は現在に至っている。
1951年(昭和26年)5月場所の番付編成で、三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助)を新設された副立行司に昇格させ、立行司の13代木村玉之助が同じ副立行司に格下げとなった。同年9月場所にも三役格行司2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇格となった。
1951年5月場所初土俵の愛宕山は、番付に四股名が載ってから五分あるいは負け越しの場所が続き、7場所目に初めて勝ち越したが、翌場所力士数の少ない当時としては異例の三段目に昇進した。その後番付上の幸運は続き、1955年(昭和30年)9月場所、幕下26枚目で8戦(当時)全勝優勝し翌場所十両に昇進している。
1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?栃錦、千代の山、大関?松登、関脇?羽嶋山、小結?鶴ヶ嶺、前頭?星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱?鏡里、千代の山、大関?松登、関脇?出羽錦、小結?羽嶋山、前頭?二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。
1957年9月場所の番付編成において、幕下まで20場所以上要した力士は廃業とする力士整理案が実施された。これにより三段目以下で廃業した力士が多く、前場所より28人減となった。
1960年1月場所、これまでの番付を改め「取締」「理事」を東方の最下段に、「勝負検査役」を中央部の「行司」の欄の下部に配し、「若者頭」「世話人」「呼出」を削除した。
1960年1月場所、羽黒花はこの場所まで3場所連続十両昇進をしてもおかしくない成績を挙げながら幕下西筆頭の地位だった。1959年(昭和34年)7月場所、幕下西14枚目で7勝1敗(当時幕下以下は8番相撲)で幕下優勝。しかし翌9月場所は西7枚目。再び7勝1敗の成績ながら、翌11月場所は西2枚目。ここで十両昇進決定的ともいえる6勝2敗の成績を上げ、いくら何でも今度こそは十両入りと、すべての支度を整えて周囲も本人もその気でいたところが、1月場所の番付発表で西筆頭止まりという番付運の悪さがつきまとった。しかしこの場所8戦全勝で幕下優勝を果たし、翌3月場所には十両に昇進している。
1960年7月場所、十両に陥落した東筆頭の羽子錦は9勝6敗の成績を上げながら再入幕できなかった。東筆頭で9勝を上げながら入幕できなかったのは羽子錦が史上ただ一人。十両西筆頭の地位で9勝を上げながら入幕できなかったのは、1987年(昭和62年)11月場所の大乃花、1990年5月場所の貴闘力(現大嶽)、1991年(平成3年)3月場所の栃司(現入間川)がいる。
1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。
1961年(昭和36年)11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花、大鵬、柏戸、3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。
1962年(昭和37年)5月場所直前に起きた二所ノ関部屋配属力士の片男波部屋移籍問題で紛争が起き、二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が9力士の廃業届を提出したが、5月場所7日目に緊急理事会を開き、二所ノ関部屋の廃業9力士の復帰を現在の番付地位より10枚下げて認め、時津風理事長(元横綱・双葉山)は二所ノ関と片男波(元関脇・玉乃海)の2人に謹慎を命じた。
1964年(昭和39年)11月場所、幕下で7戦全勝優勝した伊藤川(のち若葉山)は東幕下40枚目の地位だったが、翌1965年(昭和40年)1月場所の番付で一気に十両に昇進した。現在では幕下で全勝しても、15枚目より上位でないと十両に上がれないので、当時としては非常に幸運なケースといえる。
1966年(昭和41年)1月場所の番付は74年ぶりに役力士昇進、新入幕力士ともになかった。
1967年(昭和42年)5月場所の番付は枚数削減を実施(幕内34人、十両26人、幕下は120人の定員)したため新入幕力士、新十両力士ともになし。3月場所、十両で勝ち越した安芸の國、前田川、嵐山は幕下へ陥落した。安芸の國は翌7月場所、再十両となり、嵐山も再十両ののち入幕を果たしたが、前田川は5月場所で負け越すとそのまま引退してしまった。
1967年12月23日、協会の機構改革により翌1968年1月場所の番付編成において、理事15人、監事3人のうち理事を10人に減らし、理事の互選による取締制度を廃止。勝負検査役も任命制となり、名称も「審判委員」と改められ新しく設置された。
1970年3月場所、東関脇の栃東(現玉ノ井)は1点の負け越し(7勝8敗)で翌場所東前頭筆頭に番付を下げた。1971年3月場所、同じ東関脇の陸奥嵐は7点の負け越し(4勝11敗)ながら翌場所の番付は西前頭筆頭、同場所東小結の藤ノ川(現伊勢ノ海)も5点の負け越し(5勝10敗)で翌場所は東前頭2枚目だった。
1972年(昭和47年)7月場所で史上初めて5関脇(輪島、貴ノ花、三重ノ海(現武蔵川)、魁傑(現放駒)、長谷川(現秀ノ山))の番付となった。
1972年9月場所、十両で初の公傷制度が適用され、大潮(現式秀)と鷲羽山(現出羽海)が先場所の番付と同地位で張り出された(大潮は東5枚目、鷲羽山は西10枚目)。その後、1976年(昭和51年)5月場所に十両の公傷休場力士の張出扱いを休止した。
1972年11月場所の番付で東前頭14枚目の福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
1975年(昭和50年)頃の番付で立行司(木村庄之助、式守伊之助)と同列に三役格行司の名前が書かれたことがあった。
1975年3月場所の番付は、1948年10月場所以来27年ぶりに張出のない番付となった。
1976年9月場所、前頭4枚目の元大関魁傑は14勝1敗で平幕優勝。大関(1975年3月場所?同年11月場所、在位5場所)を陥落して5場所目だが、平幕まで陥落した大関経験者の優勝は史上初。魁傑は翌1977年(昭和52年)3月場所には再び大関に昇進したものの、在位4場所で陥落した。
1977年(昭和52年)5月場所で元大関大受(現朝日山)が十両に陥落したが、元大関の十両陥落は史上初。大受は初日から3連敗の後休場し、8日目に引退を表明した。
1978年11月場所前、この年は全国的に深刻な水不足に見舞われたが、福岡県地方は特にひどく、協会は少しでも負担を軽くとの配慮から、場所前の巡業を打ち上げた後いったん帰京。番付発表を東京で行い、全力士の福岡入りを初日の6日前まで遅らせた。
1980年(昭和55年)7月場所の番付編成で、福薗(のち逆鉾、現井筒、元関脇鶴ヶ嶺の次男)、鶴嶺山(長男)の史上初、兄弟十両同時昇進が決まった。親子3人関取も史上初。
1980年11月場所、右肩の怪我で三段目まで陥落した元小結大豊は見事7戦全勝優勝したが、元三役が三段目の土俵に上がったのは、1938年(昭和13年)5月場所の出羽ヶ嶽以来47年ぶりで、三段目優勝となると史上初。
1981年9月場所の番付は大関不在のため東西の正横綱、北の湖と千代の富士(現九重)が「横綱大関」となる。大関不在の変則番付は1905年(明治38年)1月場所(2代梅ヶ谷、常陸山の東西正横綱が「横綱大関」となる)以来76年ぶり。
1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮(現高砂)が横綱隆の里(現鳴戸)戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。
1985年(昭和60年)1月場所より新国技館で開催されたが、番付には「両国國技館」ではなく「國技館」と、「両国」の文字は入らなかった(蔵前国技館時代の番付には「藏前國技館」と書かれていた)。
1985年3月場所の番付において、新入幕の前頭14枚目寺尾(現錣山)は兄の同4枚目逆鉾(現井筒)と同時幕内を果たし、1791年(寛政3年)11月場所の横綱谷風、前頭6枚目達ヶ関以来194年ぶり史上2組目の兄弟同時幕内力士となった。
1985年3月場所初土俵の蒼樹山(現枝川)は、番付に「寺木」の名が初めて載った翌5月場所で7戦全敗。その次の7月場所も初日から3連敗のあと初白星をあげたものの、初土俵から10連敗を記録した。それから18年後の2003年(平成15年)11月場所、十両西8枚目を最後に引退したが、この場所初日から9連敗、10日目不戦敗で同じ10連敗で土俵を去った。

ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

2009年03月20日

ムーンライト信州

ムーンライト信州(ムーンライトしんしゅう)とは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が主に新宿駅 - 松本駅・信濃大町駅・白馬駅間を中央本線・篠ノ井線・大糸線経由で運転する臨時夜行快速列車の名称である。

なお、本稿では東京駅 - 穂高駅間を京葉線・武蔵野線・中央本線・篠ノ井線・大糸線経由で運転される臨時快速列車ファンタジー舞浜(ファンタジーまいはま)、桜木町駅・磯子駅?松本駅・白馬駅間を根岸線・横浜線・中央本線・篠ノ井線・大糸線経由で運転された臨時快速列車ベイドリーム横濱(ベイドリームよこはま)についても記載する。
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

臨時列車であることから主に多客期に運転し、着席サービス提供のため全車両座席指定席を採用している。下り新宿駅→信濃大町駅間運行の「ムーンライト信州83号」は2006年夏期においては金曜日運行であった。上り列車は定期列車であった急行「アルプス」時代から需要が低く、混雑が事前に予測できる日に限り運行されている。夏季には上諏訪駅近くで開催される花火大会の実施当日深夜(帰宅時)の2日間のみ運行され、お盆でさえ運行されていない。また、上り列車ではその存在価値が本来の夜行列車としての役割よりも帰宅列車としての位置付けの為、茅野?大月間を有効時間帯とするダイヤが組まれており、この区間では特急並みの高速走行を行うダイヤとなるが、そのまま新宿まで走らせると到着が午前3時半前後になるため、大月で1時50分着・3時発と1時間10分の長時間停車をし、次の猿橋でもホームのない線路に止まるため、ドアは開かないものの、1時間の停車を入れるなど区間によって所要時間に極端な差が発生している。

「ファンタジー舞浜」・「ベイドリーム横濱」は下りが夜行列車、上りは昼行列車として運行される。

使用車両 [編集]
冬季・春季は普通車のみの6両が多いが、夏季はグリーン車も連結される9両が多い。ただし、年によっては春季も9両編成で運行されるほか、夏季の2本続行運転時には2本目は6両編成となる。なお、下り列車で183系9両編成での運転時、および「ファンタジー舞浜」では、1号車は女性専用車両となる。2008年春のダイヤ改正以降は183系の幕張車が中央ライナーから撤収したのに伴いムーンライトの担当から外れ、通常は長野車183系6両編成を使用するようになった。

183系・189系
6両編成は長野総合車両センター、9両編成は幕張車両センターの所属車両が使用される。なお、長野車が不足する場合は豊田車両センターの旧「あずさ」色6両編成が代走するほか、車両運用の都合で幕張区の旧「あずさ」色マリ31・32編成が代走したことがある。さらに2006年3月24日・31日には長野車の検査と他区の臨時列車運行が重なったため、国鉄色の田町車両センター所属車が使用された。
旧「あさま」色編成(緑色の帯)は6両。簡易リクライニング6号車以外はグレードアップ車と同じ座席に交換されている(ただし、N101編成は1号車も簡易リクライニング)。
国鉄色の「中央ライナー」編成の場合は9両、9号車を除きグレードアップ車。また9号車は4本中1本(C1編成)のみ座席改良車である。
その他の配置車は、田町所属車の6号車を除き簡易リクライニング装備の非デラックス車であるが、豊田所属車は1号車?3号車が長野車と同じく座席改良車、その他が簡易リクライニングシートとなる。
E257系
2007年8月15日運行の92号(「ムーンライト信州92号(諏訪湖花火大会号)」として運行)はあずさ用のE257系11両編成で運行された。これは通常使用する183系(幕張車)が臨時あずさ号に運用され、車両が不足したため。翌年の2008年3月28日運行の81号にはE257系9両で運行された。
E351系
翌2008年の諏訪湖花火大会でも例年通り92号が運行され、3形式目となるスーパーあずさ用E351系12両編成が使用された。当日の運用は午後に臨時スーパーあずさで松本へ向かい、夜にムーンライトに入る運用であった(9月の新作花火大会でも同様の運用となるがこちらは同運用をE257で運用し、通常の「あずさ」として運行)。


停車駅 [編集]
新宿駅 - 立川駅 - 八王子駅 - +高尾駅 - 大月駅 - 塩山駅 - 甲府駅 - 小淵沢駅 - ○富士見駅 - 茅野駅 - 上諏訪駅 - 下諏訪駅 - 岡谷駅 - +辰野駅 - 塩尻駅 - 松本駅 - ○豊科駅 - ○穂高駅 - ○信濃大町駅 - #神城駅 - #白馬駅(2008年夏現在)

81号(下り)・92号(上り)はみどり湖駅経由、83号(下り)は辰野駅経由。
#の駅は81号のみ停車。+の駅は83号のみ停車。○の駅は81号および83号が停車。
*の駅は92号のみ停車。

担当車掌区 [編集]
81号・83号(下り):松本運輸区
92号(上り):新宿運輸区
「ファンタジー舞浜」(下り):浦和車掌区・八王子運輸区・松本運輸区
「ファンタジー舞浜」(上り):浦和車掌区・松本運輸区
「ベイドリーム横濱」(上下):東神奈川車掌区・八王子運輸区・松本運輸区

2009年03月05日

ムシュフシュ

ムシュフシュ(アッカド語:Muš?uššu, シュメール語:Muš?uš)とは、シュメール語で怒る蛇の意。以前はシルシュ(Sirrush)とも読まれていた。現在では、?uš は楔形文字では ruš とも読めるが、ムシュフシュのほうがより確実な読みであるとされる[1]。

創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』においては、マルドゥクと戦うためにティアマト神に生み出された蠍尾竜。ティアマト討伐後にマルドゥクの軍門に下り、乗獣となった。意義も魔物から守護獣となった。後にバビロンでイシュタル門を守る守護竜とされた。女神イシュタルの乗獣である場合もある。そのほかティシュパク神、ニンギシュジダ神、アヌ神などとも関連付けられていた。

図像学的には、最初期は非常に首の長い動物として描かれていたようである[2]。この姿のムシュフシュは古代エジプト美術に影響を与え、「ナルメルのパレット」にも彫り込まれた
『ダニエル書補遺』に「ベルと竜」という挿話がある。それによると、バビロニア人は竜(大蛇とも)を信仰していた。ダニエルは王に認められ、ピッチと脂肪と毛髪によって作られた団子でこの竜を破裂させ殺す。怒った民衆はダニエルをライオンの洞穴へ投げ込ませる。そこでダニエルは7日間を過ごし、ハバククに助けられる、という内容である。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

この竜はイシュタル門を守っていたムシュフシュのことではないかといわれている。

悪魔アスタロトとの関連 
女神イシュタルはキリスト教で悪魔アスタロトとされてしまった。巨大な蛇に跨り、右手には毒蛇を持ち、口からは毒ガスを吐き出すとされ、過去と未来を見通す能力を持つとされる。巨大な蛇に跨るのもムシュフシュの影響といえよう。

2009年02月13日

人工少女

リアルタイム描画の3Dアダルトゲームを主に製作するILLUSIONの代表作の一つ。2004年に体験版にあたる人工少女が登場し、同年秋に人工少女2、2007年冬に人工少女3が発売された。人工少女と人工少女2の違いとしては、人工少女の方は少女に行える行為がじゃれあい程度に収まるため一応は全年齢がプレイ可能なのに対し、人工少女2・人工少女3ではセックスを含むアダルトな表現を含んでいるため18禁ソフトとなっていることが挙げられる。
ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

このゲームの内容は自分好みにカスタマイズした人工少女と無人島(3のみ無人の街)で暮らすというもの。明確に設定された目的やストーリーなどはなく、ひたすらセックスを楽しむなり、人工少女の服の着せ替えを楽しむ、人工少女の行動の鑑賞を行うなどの楽しみ方ができる。2では少女たちとセックスするために友好度や愛情度を高めるなどの条件は無く、最初からセックスできる。それらはむしろ少女達をセックスできちんとオーガズムに導き続ける事により高まっていく。3では後述の「属性」の設定によりセックスに至るまでの難易度の差が生じた。プレイ期間や目的が定められていないため、エンディングが無く、エンドレスでゲームを続行可能なのも特徴である。(ただ、人工少女, 人工少女2にはゲーム進行不可能となる、いくつかのバッドエンディング・ゲームオーバー的な現象がある。)

3においては、少女の容姿だけでなく性格も設定することができ、その他の属性として性癖や身体能力などの特徴を設定できる。そのため設定によっては少女と初対面でいきなりセックスを開始することもできる。逆に属性として「男苦手」や「臆病」などもあり、セックスに至るまでに困難を伴う場合もある。どのようなタイプを選ぶかはプレイヤーに委ねられるため、純粋に好みのタイプの女性を作成して疑似恋愛を楽しむことも可能である。
本シリーズの第一作。ただし、本作の正式出荷版が「人工少女2」となるため、本作はあくまでベータ版である。人工少女2とは違い、服の着せ替えや人工少女のカスタマイズは出来ず、無論性行為も無い。人工少女2では人工少女がプレイヤーに好意を持った状態で始まるが、今作ではプレイヤーと人工少女が初対面で距離を取った状態から始まる。プレイヤーの行動によってこの距離を縮め、ある程度良好な関係を持つとおまけのゲームが始まり、その後人工少女2の宣伝が表示され終了する。

人工少女の製品版となる。人工少女との違いは以下の通りである。

人工少女のカスタマイズが可能
人工少女の目や髪型の種類や色、胸の大きさ・乳輪の種類を細かに設定できる他、血液型の選択が可能。血液型によって人工少女の声及び性格(台詞)が変化する。
衣装の変更
最初の人工少女の衣装は体験版と同じ白のビキニタイプの水着だが、特定のマップ中に点在する地蔵に祈願する事により、衣装の変更を行わせる事が可能となっている。
衣装は、下着、上着、靴など複数の部分に分かれており、好きなようにコーディネートする事が可能。
選択可能な衣装は人工少女の性経験の度合いに伴って追加される。
主人公と人工少女の関係
前述されている通り、人工少女が主人公(プレイヤー)に好意(愛情)を持っている状態から始まる。
島の大きさ
体験版ではごく小さい単一マップの無人島が舞台だったが、2では舞台となる無人島が複数のマップから構成されており、自分の家がある他、学校・駅・温泉といった生活感を与える建物、研究所・謎のモノリスなどの意味深な建物などが増えた。だが無人島に変わりないので住民はいない。
人工少女との性行為
セックスが出来るようになる。海の中以外どこでもすることができ、行う場所の地形や障害物により体位が変化する。
ゲーム開始時、人工少女は処女の状態であり、セックスを重ねる事により台詞や反応に変化が生じ、新たな行為も可能となる。
人工少女の行動
体験版では歩いたりしゃがんだり走ったりと基本的な動作しか行わなかったが、2ではゲーム内での昼夜の流れにあわせ、料理を作ったり風呂・トイレ・着替え等の行動も取るようになった。また、プレイヤーへの語りかけやプレイヤーキャラとの散歩などの行動も取るようになった。セックスをしばらく行わないとオナニーもする。また何度もトイレの邪魔をするなどしているとおもらしもする。着替え、トイレや風呂、オナニーは覗くことができる。
その他にも様々な違いがある。
2007年11月30日発売。人工少女2に比べグラフィックの拡張を主に様々な要素が追加された。

最たる例はキャラ/衣装作成ツール・キャラクター/衣装データが本体と完全に分離され、非常に幅広いカスタマイズが可能となったこと、複数のキャラクターを同時にゲームに投入することができるようになったなどである。

本作より舞台が無人島から、無人の街となった。家屋は一般的な一軒家、和風屋敷、洋館の3種類で、通常この世界に投入された少女たちはこのどれかに住まうことになる。(ただし、少女によっては神社の奥や海などで睡眠をとることもある。)その他学校や海(海の家付き)、神社などの建造物がある。『はんなり』をインストールすることで、建造物は更に増える。

また、非常に細かいネタも用意してある。少女たちが睡眠中に呼ぶと、寝言を言うことがある。寝言にはキャラクター型分用意されており、「超有名なヒーロー」や「超有名なロボットアニメ」、更には「超熱いマンガ」や「超売れたボーカロイド」をネタとしてオマージュしている。

本作では、通常であれば投入した少女と良好な関係を構築することが当面の目的となるため、おのずと時間を共有することがかなり大切になる。関係の(ある意味)終着点がセックスにある点を除けば、このゲームシステムは、ROOMMATEのコンセプトに近いものがある。

本作では、少女が小用を足す際にトイレに先回りすることで、少女に野外小便を強制することができる。これについては攻略サイトなどで「おもらしマラソン」として紹介されている。[1]

人工少女3 はんなり
『人工少女3 はんなり』は2008年5月30日に発売された同作品の追加ディスク。
この追加ディスクでは人工少女2で好評であった、プレイヤーへの語りかけやプレイヤーキャラとの散歩などを始めとした多くの人工少女の行動の拡張や、複数の人工少女間での会話や修羅場イベントの発生、操作性の改善、その他大小様々な修正など、人工少女3を大きく補完するものとなっている。

ちなみに「はんなり」とは京言葉で「花のように」という意味を持っており、転じて京都の典型的な美女モデル(ステレオタイプとも言えるが)「おっとりした上品な京都の美女」を形容する際に使用する表現である。 本作では、文字通り京都弁を語るキャラボイスが含まれているが、京都弁キャラボイスを担当する涼森ちさとは京都出身ではなく大阪府出身である。本作で追加されたキャラクターボイスは、大阪弁「宮沢ゆあな(大阪府出身)」と博多弁「紫華すみれ(福岡出身)」の合計3種類。人工少女のローカライズ拡張版と言える。

キャスト
人工少女3
成瀬未亜(C型)
芹園みや(K型)
深井晴花(T型)
茶谷やすら(N型)
みる(U型)
青山ゆかり(V型)
咲ゆたか(M型・公式通販特典)
人工少女3 はんなり
紫華すみれ(J型)
宮沢ゆあな(P型)
涼森ちさと(Y型)
桃井いちご(S型・公式通販特典)

2009年01月27日

MiG-19 (航空機)

MiG-19(ミグ19;ロシア語:МиГ-19ミーグ・ヂヴィナーッツァチ)は、ソ連初、世界では二番目の超音速戦闘機である。MiG-19はミグ設計局によって防空軍向けの迎撃戦闘機として開発されたが、より高い性能を持つSu-9などが実戦配備に就くと、前線戦闘機として空軍にも配備された。その他、各国へ多数が輸出された。北大西洋条約機構(NATO)では、MiG-19に対し「ファーマー」(Farmer:「農夫」)というNATOコードネームを割り振った。

MiG-19の最初の試作機であるSM-9/1(СМ-9/1)は1954年1月5日に初飛行を果たした。SM-9には当初よりMiG-19という量産用の名称が使われていた。この機体は推力3250kgのAM-9Bジェットエンジン2基を搭載しており、最高速度は1452 km/hを発揮した。武装は23 mm機関砲NR-23(НР-23)3門、250 kgまでの爆弾も2発搭載可能であった。

インドネシアで使用されたMiG-19S1955年に初飛行したSM-9/3(СМ-9/3)は、機体の安定性を改善し、武装も機関砲を30 mmのNR-30(НР-30) 3門に変更するなどした改良型で、MiG-19S(МиГ-19С)としてMiG-19シリーズの主生産型となった。中華人民共和国では殲撃六型(殲-6、J-6、F-6)として大量に生産・配備・輸出された。また、MiG-19SV(МиГ-19СВ)とMiG-19SU(МиГ-19СУ)はともに高高度戦闘機として開発された。

1955年に初飛行したSM-2(СМ-2)は、Il-2、Il-10にかわる打撃戦闘機として開発された。量産には結びつかなかったが、中華人民共和国ではこれによく似た形式の発展型を生産しており、パキスタンなどで使用されていた。また、特殊な戦闘爆撃機型としては、SM-9/9(СМ-9/9)が小型の核爆弾を搭載する機体として開発された。

MiG-19PMのレーダーとミサイルK-6(К-6)空対空ミサイルを搭載する迎撃戦闘機として既存の機体から改修されたSM-2/I(СМ-2/И)は30 mm機関砲NR-30 3門を保持していたが、全天候能力に欠けていた。MiG-19Pの原型となったSM-6(СМ-6)はアルマース3(Алмаз-3)捜索・指示装置を装備し、また主翼下には試験用の写真機Ye-13-300(Е-13-300)とAKS-2(АКС-2)を搭載していた。武装は23 mm機関砲NR-23 3門とK-6 2発であった。初飛行は1957年に行われ、翌年まで試験が続けられた。

1955年に初飛行を行ったSM-10(СМ-10)は、空中給油装置を装備する戦闘機として開発され、Tu-16やM-4、Il-28、MiG-15などとともに試験を行っていたが、結局ソ連では戦闘機に空中給油能力を持たせることは決定されなかった。なお、SM-10の諸性能は武装を含めSM-9と同等であったとされている。

1956年に初飛行を行ったSM-30(СМ-30)は、ロケットのように発射台から発射される短距離離陸の試験機として開発された。こうした試みは当時各国で行われており、アメリカ合衆国ではF-86やF-100、F-104で行われていたものが有名である。これらはいずれも量産には移されなかったが、小型の補助ロケットエンジンによる離陸距離の短縮はMiG-21やSu-7で実用化されている。

ウクライナ・ドネツィクで展示される旧ソ連軍のMiG-19PM初めて実戦活動を行ったのはトルクメニスタンにあったソ連防空軍第9護衛戦闘飛行連隊の機体で、1957年、アンディジャン飛行場を飛び立った機体がアメリカ合衆国のU-2偵察機を迎撃した。1960年5月1日にU-2がS-75地対空ミサイルによって撃墜された際もMiG-19は迎撃を行っていたが、MiG-19によるU-2迎撃はすべて失敗に終わっている。しかし、1963年には、バレンツ海でアメリカのRB-47偵察機を機関砲で撃墜している。

その後、MiG-19はヴェトナム戦争で北ヴェトナム空軍機として使用されている。また、この戦争の間には中華人民共和国の殲-6が領空侵犯した米軍の飛行機を撃墜している。

ソ連空軍のMiG-19はプラハの春の際にはワルシャワ条約機構軍機としてチェコスロヴァキアの上空を飛び回った。

殲撃六型印パ戦争では中国製のF-6がF-86F及びセイバーMk.6などの後継機としてパキスタン空軍で用いられた。同空軍ではF-6は今世紀初頭まで長らく運用が続けられており、アメリカのアフガニスタン侵攻初期にはまだ実戦に参加していたが、同戦争中にF-7PGに代替されて退役した。

MiG-19が使用された戦闘でもっともよく知られているのは中東戦争であり、MiG-19SやF-6がイスラエル軍のミラージュIIICなどと空中戦を度々行った。

また、2003年には、1 機の朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍のF-6が38度線付近において挑発行動をとったとして大韓民国空軍のF-5E戦闘機2 機が迎撃した事件があり、その映像は日本のテレビでも放映された。

エジプトのF-6MiG-19は世界初の超音速戦闘機であるアメリカ合衆国のF-100にわずかに遅れて1954年1月5日に初飛行を果たした。両者を比較すると、MiG-19は空中格闘戦力では遙かに優れ、その長所により非常に多くの機数が生産・配備されたが、致命的なほどのエンジン寿命の短さとそれに伴う整備性・運用効率の悪さ、小さい兵装搭載力、短い航続力などの欠点があった。両者は音速を超える戦闘機という共通の目標をもって開発されたものの、低機動性・安定性と大きな兵器搭載量を生かした戦闘爆撃機に発展したF-100と、高機動力と少ない兵器搭載量から格闘戦闘機として発展したMiG-19とでは、その性格は対照的であった。もっとも、中国ではMiG-19の発展型として地上攻撃機のQ-5/A-5が開発されていることを考えると、MiG-19も万能機としての能力を発揮する素地はあった。

MiG-19は西側では「MiG-15の二番煎じのMiG-17とMiG-21との間のつなぎ」という低い低い評価が与えられていたが、エジプトのMiG-19Sと交戦したイスラエルの戦闘機パイロットは、MiG-19を「最高の格闘戦闘機」と評している(とはいうものの、戦闘では常にイスラエルのミラージュIIIが勝利しており、この言葉は「勝者の余裕」であるとも受け取れる)。[1]

MiG-19からは各種の試験機体が開発され、その後のソ連機の発展に大きな貢献をした。MiG-19から開発された研究用の機体の種類と数は、MiG-15やMiG-21など他の機体の研究用派生型と比べてはるかに多い。この貢献は、MiG-19の大きな功績である。

初期型のMiG-19
MiG-19S
チェコスロヴァキア製のS-105
MiG-19PMMiG-19 (МиГ-19)
少数生産・配備された初期型。のちの派生型に比べて垂直尾翼が小型であるなど多くの相違点がある。緊急に量産化されたため、性能上不満足な点が多かったとされる。武装は、23 mm機関砲NR-23を3門搭載。
MiG-19S(МиГ-19С)
本格的な配備型。数種類に分けられる。武装は、当初は30 mm機関砲NR-30 3門及び57 mmロケット砲のみであったが、のちにR-3(K-13)赤外線誘導ミサイル2発を運用できるよう改修された。その他、武装にはいくつかヴァリエーションがある。また、チェコスロヴァキアのアヴィア社でライセンス生産された機体であるS-105では、垂直尾翼がMiG-19PM同様に大型化されている。後期型は、MiG-19SF(МиГ-19СФ)と呼ばれる。
MiG-19P (МиГ-19П)
イズムルート・レーダー搭載型。武装は、当初は23 mm機関砲2門及び57 mmロケット砲のみであったが、のちにR-3赤外線誘導ミサイル2発を運用できるよう改修され、MiG-19PT(МиГ-19ПТ)と呼ばれた。
MiG-19PM (МиГ-19ПМ)
イズムルート・レーダー搭載型。武装は、K-5(RS-1/RS-2U)コマンド誘導ミサイル4発のみ。MiG-19Pとは垂直尾翼の大きさが異なり、MiG-19PMはたんにMiG-19Pにミサイルを搭載した機体とするのは誤りである。
殲撃六型 (殲-6, J-6, F-6)
中華人民共和国で生産された機体で、複座の殲教六型(JJ-6、FT-6)や偵察機型の殲偵六型(JZ-6)など多くの発展型が開発された。輸出も世界各国になされた。なお、殲撃六型はMiG-19Sのコピーと言われ、両者はしばしば混同されているが、実際は搭載エンジンや機器などが異なり、また外見上の識別もさほど困難ではない。すなわち、搭載エンジンの関係で殲撃六型はMiG-19Sとは尾部の空気取り入れ口配置が異なっており、また垂直尾翼の大きさも殲撃六型はMiG-19PMと同等の大型のものであるので、尾部が判別できる限りは両者の識別は容易である。さらに、殲撃六型の後期型では垂直尾翼にドラッグシュート収納部が移設されているので、より一層外見上の識別は容易になっている。また、初期型を除く多くの殲撃六型では機関砲のノズルの形状もMiG-19Sとは異なっている。そのほか重要なこととしては、中華人民共和国はソ連と断絶したアルバニアから複数のMiG-19PMを入手することに成功したことが挙げられる。そこから、中華人民共和国にもようやくレーダー技術が齎されることとなった。量産されたレーダー搭載型としては、殲撃六型甲型(F-6A)、殲撃六型乙型(F-6B)がある。なお、もっとも多数生産されたレーダー非装備型は殲撃六型丙型(F-6C)、ショックコーンを装備し空気取り入れ口を大型化した発展型は殲撃六型新型(J-6Xin)と呼ばれる。
強撃五型(強-5, Q-5, A-5)
中華人民共和国で開発された攻撃機型。数種の発展型がある。中国人民解放軍では、空軍と海軍で運用されている。輸出も、パキスタン、バングラデシュ、朝鮮民主主義人民共和国、ミャンマーなど数ヶ国に対してなされている。
※その他、ポーランドで「Lim-7」としてMiG-19がライセンス生産されたという誤認情報があった。
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スペック (MiG-19S)
初飛行:1955年
翼幅:9.00 m
全長:12.54 m
全高:3.89 m
翼面積:25.00 m?
空虚重量:5447 kg
最大離陸重量:7560 kg
燃料搭載量:1800 ?
発動機:トゥマーンスキイ設計局製 RD-9B ターボジェットエンジン ×2
出力:3250 kg ×2
最高速度:1452 km/h
通常実用航続距離:1390 km
実用航続距離(外部タンク使用):2200 km
上昇力:3333 m/min
最大搭載量:17500 m
乗員:1 名
武装:30 mm機関砲 NR-30(НР-30) ×3(弾数70発 ×2、55発 ×1)、ORO-57Kロケット砲 ×4(翼下 ×2、燃料タンク搭載位置 ×2を装備、各砲のロケット弾数S-5(С-5) ×8)、250 kgまでの爆弾を各位置に搭載可能