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ポーランドとフィンランド侵攻

ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、ソ連を連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったソ連は、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となった。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日、南部のロストフも占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ナチス・ドイツは開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。

12月7日(現地時間)、日本海軍機がハワイを攻撃し太平洋戦争が勃発。それを受けて12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告。アメリカ合衆国が連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。

東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からボルガ川西岸のスターリングラード[9]、コーカサス(カフカス)地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフを占領。8月9日、マイコプ油田を占領した。
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ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。

8月23日からスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35?まで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。

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2009年06月25日 00:57に投稿されたエントリーのページです。

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