現代のキリスト教・ユダヤ教では聖絶を表向き肯定する意見は比較的少数派である。しかし、神学上の解釈に於いてはなお「この聖絶は神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とする意見が根強い。しかしこの聖絶という行いは現代風に言えば間違いなく「民族浄化」に他ならず、ユダヤ人のホロコーストを想起させざるを得ない行いである。聖書の無謬性を重んじるか、普遍的人道を重んじるかでクリスチャンやユダヤ教徒の解釈も割れている。
なお、上にも述べた通り『新改訳聖書』は、福音派クリスチャンの手による翻訳聖書であり、当然ながら「聖書根本主義」の立場で翻訳されている。したがって、この聖書を用いる教会及び教会員は、聖書の無謬性の観点から、自覚的であると否とによらず過去における「民族浄化」行為を正当化する立場に立っていると言える。
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もっとも現在では、聖絶の語は、「神が直接人類に語らなくなった現代ではジェノサイドとしての聖絶がクリスチャンによって実際行為として行なわれることはない」とか、あるいは「何ものも私物化せず、全てを神のものとして捧げる行為を暗示している」など様々に解釈されているが、「民族浄化」を容認するこのような訳語の試みに対して批判的に見る向きも多い。
改革派・長老派教会においては、聖絶の問題は契約神学の観点から捉えられている。聖書の無謬性・規範性に基き、旧約聖書における聖絶の記事は歴史的事実であり、神の正当な行為であったと受け止められている一方で、イエス・キリストが到来して以来の時代においては、聖絶の名において民族浄化のような殺戮行為を行うことは、聖書自身が禁止しているとすると見る。